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The New Yotk Times そのフォト・ジャーナリズム

2009.05.24  [九年目]
最近、インタネットでThe New York Timesのウェブサイトをちょくちょく見ている。
The New York Times 20090524

21:43 |  |

2009.02.25  [七年目]

 

 


17:08 |  |

ホンモノの狂気、学校教育現場w

2009.02.17  [七年目]
撮影ご遠慮ください、保護者から不満も 田辺中学卒業式(和歌山) 
====================================Yahoo! News から=======
3月に初めての卒業式を迎える田辺市学園の県立田辺中学校(浜野公二校長)は、個人情報保護法などを理由に、会場での保護者らによるカメラやビデオ撮影を事実上禁止する方針を立てている。すでに入学式でも実施しているが、保護者から「子どもの成長を記録に残したい。撮影をさせてほしい」などの声が上がっている。県教委は「学校が決めた事柄で、県教委が良い悪いは言えない。良識の範囲内の撮影なら法律には抵触しないだろう」と話している。(紀伊民報)

撮影ご遠慮ください、保護者から不満も 田辺中学卒業式(和歌山)
2月16日17時17分配信 紀伊民報


 3月に初めての卒業式を迎える田辺市学園の県立田辺中学校(浜野公二校長)は、個人情報保護法などを理由に、会場での保護者らによるカメラやビデオ撮影を事実上禁止する方針を立てている。すでに入学式でも実施しているが、保護者から「子どもの成長を記録に残したい。撮影をさせてほしい」などの声が上がっている。県教委は「学校が決めた事柄で、県教委が良い悪いは言えない。良識の範囲内の撮影なら法律には抵触しないだろう」と話している。
 同校では、本年度から式典で保護者に撮影をしないよう求めており、入学式の際は、保護者あての案内ハガキに「個人情報保護法により、写真・ビデオの撮影等ご遠慮ください」と記載したり、会場で協力を呼び掛けたりした。3月14日の卒業式のハガキはまだ送付していないが、同様の文面にするという。
 ある3年生の保護者はこのほど、卒業式を前に「子どもを思う親として、成長の節目を祝って、記録に残したい」と同校に撮影許可を申し入れした。
 これに対し、浜野校長は「保護者としての気持ちはよく分かるが、写るのが自分の子どもだけではない場合、個人情報保護法で規制される。撮影されるのを嫌がる生徒や保護者がいるかもしれないし、ほかに流用される可能性もある。その場合は学校として責任が持てない」と説明。多くの保護者が一斉に撮影することになると、式を厳粛に開くことができなくなることも理由に挙げ、理解を求めた。
 同中学と一貫教育をしている田辺高校でも昨年度の卒業式から、保護者に写真やビデオ撮影をしないよう呼び掛けている。
 県教育委員会は「県立校での式典における保護者の撮影については学校独自の判断で、実態を把握していない」と話している。
 田辺市教育委員会も、小中学校の式典における対応は学校の判断に任せている。しかし、撮影を禁止するという話は現場からは聞いていないという。



01:56 |  |

【静かなる狂気】 Vilhelm Hammershøiを訪ねて(6)

2009.01.07  [八年目]

この、中核となる被写体を積極的に排除してみせたということについて、あえて冒頭で触れた写真技術との関連づけるなら、ハンマースホイは当時すでに確立していた写実的写真技術ではかなわない芸当を、やってみせたと言えなくもない。

当時の写真技術では、写したくないものはフレーム外へ追いやるしかなかったのであり、写実性において後塵を拝した絵画に、また一歩、強烈なアドバンテージを与えたのがハンマースホイだという分析も可能なのかも知れない。しかしそれではあまりにつまらない。むしろ、生涯のほとんどを、同じ室内の同じ構図の絵を描き続けることに費やしたその精神構造に畏怖の念を抱く。私はハンマースホイのことを、偉大な引きこもり画家と呼ばせていただきたい。

 

さて、こうして書いていても頭痛がしてくるハンマースホイである。実際に展覧会を訪れてから二ヶ月弱、こうしてレポートを書くことができなかった私の心情も理解していただきたいものである。陰鬱なのである。狂気さえ感じるのである。ただ、それを私は嫌いではない。


ところで、絵とはまったく関係のないことだが、妻・イーダは幸せだったのだろうか。なにしろハンマースホイの室内画のなかでは、ほとんど表情を描かれなかった妻である。描かれたとしても、えらい老けた顔であるいは疲れた顔でしか、イーダは登場しない。

展覧会へ入っていって、最初に出会うのが、婚約時代のイーダを描いたこの作品だった。

ueno15

実に愛らしい表情をしている。ところがここでも「意図的な描写の欠落」が行われている。イーダの手である。

ぎえっと声を上げて後ろへ飛び退きたくなるほど驚くのであり、ここまでくると一種のオカルトとさえ言えるであろう。なおこの作品は、写真をもとに描いたものなのだそうである。

 

ぐったり疲れた展覧会体験であった。そしてまた、今も疲労困憊である。ハンマースホイ、偉大である。




03:24 |  |

【静かなる狂気】 Vilhelm Hammershøiを訪ねて(5)

2009.01.07  [八年目]

仮に、ハンマースホイが極端なまでに人間嫌いだったとすると、ハンマースホイの作品の随所に見られる謎が解けそうな気がしてくるのである。

たとえばこの作品だ。

ueno13

 

ぱっと見た瞬間、窓を通って入ってくる光の美しさ、またその光を受けて輝く窓の美しさに眼がいくが、しかしこの部屋のとびらには、ドアノブがないのである。部屋の機能の重要ポイントが欠落している。

この部屋は、ハンマースホイによって、何枚も描かれており、作品によってはドアノブは存在している。

ueno14

 

そもそも、あれほど大量に描いた女性(妻・イーダ)は、そのほとんどが後姿であって、そういう意味では「顔」が欠落していると言える。やはり重要な要素を、あえて排除している。

もうこうなってくると、絵画鑑賞も楽しいというより苦痛である。心理戦争をやっているのと同じなのだ。


03:06 |  |

【静かなる狂気】 Vilhelm Hammershøiを訪ねて(4)

2009.01.07  [八年目]

結局私は予定を変更して、翌日もういちど上野の西洋美術館を訪ねた。いくらなんでも、落ち着かないのである。ハンマースホイの魅力の根源は、いったい何なのか。もうちょっと実物を見ておきたいと考えたのだった。

繰り返すが、私は絵画については素人以下である。モナリザなども、絵画集などを見てわかった気になっている。モネとマネとの区別もできない。その程度の知識しかない。

その私をして、「もうちょっと実物を見ておきたい」と思わせただけでも、実はハンマースホイ、相当のものである(笑)。ここでは適当に、分かる程度にの写真を掲載しているが、言うまでもなく、実物の迫力はすさまじいものがある。画家がダイレクトに描いたその作品をまたダイレクトに見る。それはそのまま、作家との対話であるとさえ言える。それはかみ合わない会話なのかも知れないが。

私と同様の、絵画素人の方には、どんな作品でもよいので、やはり実物をきちんとごらんになることを強くお勧めする。印象はまるきり違ったものになる。

 

さて、案外ハンマースホイを解く鍵になるのは、「チェロ奏者」と名づけられたこの作品かも知れない。

ueno12

 

これは、チェロ奏者側から依頼されての肖像画であるということである。このようなサムネイル画像からはさっぱり分からんと思うが、実物を見れば一瞬で、これは「チェロ」の絵であって、「奏者」の絵ではないと分かる。チェロについてはフェティシズムかと思われるほどに、肉感とも言える質感をもって描かれている。一方のチェロ奏者に関しては、その描写はもう、投げやりである。

ハンマースホイは、雑誌のインタビュー(ハンマースホイは20世紀の画家であることは忘れてはならない)で、知らないひとを描くのは好きにはなれないと答えたらしいが、それにしても、これはないだろと言いたくなるような描き方である。私が依頼主なら、このような肖像画は破り捨てたことであろう。そういう意味では、この絵が後世に残ったのは、依頼主がよほどの人格者であったか、あるいはハンマースホイのことを好きであったかなどなど、創造すればとどまるところがない、非常にヒドイ作品である。上手いのにヒドイのである。

あるいはひょっとして、極端なまでに人間嫌いだったのか。

 

 

   


02:50 |  |

【静かなる狂気】 Vilhelm Hammershøiを訪ねて(3)

2009.01.06  [八年目]

= 最初の印象=

ueno05

仮に、一枚あたり0.5秒程度、それぞれの絵に一瞥をくれるだけで、展覧会場を超高速で駆け回ってきたとしたら、その感想はきっと、こんな感じになっただろう。

「優しい色使いの絵ね。」

「フェルメールを見習ったんだろうな。」

「静かな絵だわ。」

 

そもそも展覧会の副題にも『静かなる詩情』とある(笑)。つまり、「別にどってこたない」のである。人畜無害のような印象を受ける。こんな感じの室内風景画が、とくに代わり映えすることもなく、何枚も何枚もならぶ。

ueno06

 

これほどに、見ているものをして飽きさせるほどに同じような絵を描き続ければ、そりゃ一枚や二枚(実際にはもっとだが)後世に残るものも描けるわなと、ちょっと意地悪な見方をしたくなったりもする。特別な「見所」を発見できないのである。

むしろ、ハンマースホイの展覧会に、オマケのようにして飾られた、同時代の二人の画家、Peter Ilstedピーダ・イルステッドとKarl Holsøeカール・ホルスーウの絵のほうが、印象は強い。

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Karl Holsøe

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Peter Ilsted

著作権への配慮でもって、画質を思いっきり落としてあるので、興味をお持ちの方はそれなりの画集で、あるいは本当は実物を見て確かめてほしいのだが、見所満載のこれら二人の作品には、私のような絵画素人にとってとても分かりやすい、言わば『完全な美』が存在している。イルステッド、ホルスーウの二人と比べると、ハンマースホイは格段に意味が不明である。帰ってから読んだ解説書によると、三人の時代に高い評価を受けたのは、やはりハンマースホイ以外の二人だったとある。

ここでずばり、ハンマースホイは世間一般からは下手糞扱いされていたのだとしよう。ところが、ハンマースホイが室内画で描き続けた後姿の女性は、イルステッドの実妹のイーダなのだという。イルステッドは実妹を、「自分より評価の低い」ハンマースホイに嫁がせ、そして上の絵からもわかるとおり、ホルスーウとともに、ハンマースホイからその作風において強烈な影響を受けている。

そのハンマースホイがこの21世紀初頭に、その真価を認められはじめた…ということらしいのだが。

  

 

 

 


22:07 |  |

【静かなる狂気】 Vilhelm Hammershøiを訪ねて(2)

2009.01.06  [八年目]

=まずはフェルメール=

ueno02

写真ってやつを考えるときに、フェルメールは巨峰である。作品が、写真以上だからである。写真的であるが、写真以上のチカラで見る者に迫ってくる。

いったいなぜか。ならば我々写真愛好家が、いま写真に付け足すべきものは何なのか。あるいは写真から削ぎ落とすべきものは何なのか。写真表現とはいったい何なのか。そういう根源的な問いかけが、そこにはある。

 

フェルメールの時代には、今に言うカメラは当然存在しておらず、ただ、その原型とされる「カメラ・オブスクーラ」といわれる仕組みだけがあった。

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この絵は、作家・画家の赤瀬川原平氏がその著書「名画読本」で示されたものである。赤瀬川氏は、フェルメールはおそらくこのカメラ・オブスクーラを駆使したであろうとされているが、ここで注意しておきたいのは、カメラ・オブスクーラの場合には、現代版カメラのようには、画像を紙・フィルム、あるいはデジタルデータのようなかたちで記録として保存できない、という点である。ただその場で、視覚に一定の変容を与えるだけである。

さてここではこれ以上フェルメールの技法について触れる必要はないと思う。フェルメールについて触れたのは、ハンマースホイが紹介される際には必ず「フェルメールを思わせる、静謐で古風な室内表現」云々というように、フェルメールとの共通性を指摘する声が多いからである。そしてもちろん、そういうように言われるまでもなく、ハンマースホイの作品に触れれば、おそらくほとんどの人がフェルメールを想起するであろうからである。

ハンマースホイに触れれば、フェルメールを理解する糸口がみつかるかも知れない。そう思って私は東京へと旅立ったのだった。

ueno04

 

 


16:26 |  |

【静かなる狂気】 Vilhelm Hammershøiを訪ねて(1)

2009.01.06  [八年目]

 去年の夏ごろのことだったが、たまたまテレビに映っていた絵画に非常に惹かれ、気になってしょうがなくなり、ついに晩秋の11月19-20日の二日間、東京・上野の西洋美術館を訪れるという愚挙に出た。遅くなったが、メモ書きをもとに感想をレポっておくことにする。

なにしろ、絵の展覧会へいくなどとは、大学時代のデート以来のことである。普段、興味関心などはさらさらない。まして展覧会会場は東京である。遠い。しかし是非、本物をこの眼で見ておきたいと思ったのだった。

出不精のワシを東京まで一泊二日の旅に誘い出したその画家の名は Vilhelm Hammershøi 。

 

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16:04 |  |

TV版【ROOKIES】を見る

2008.12.31  [八年目]
大晦日を明日に控えた今日、テレビをつけながら部屋の掃除をしていて、そのテレビの面白さについ、掃除がおろそかになってしまったのだった。

画面に映っていたのはTV版『ROOKIES』という、なんつーか、まぁ学園ものドラマであると言えるか。

少年ジャンプに連載されていた原作は、行きつけのうどん屋で注文の品を待つあいだにちらちら見たりして、まぁ知ってはいた。そのストーリーは、不良どもが熱血先生に出会って、夢(この場合は甲子園出場)を追いかけ始め、そして努力あり涙あり脱線ありの結果どうたらこうたらという、二行ほどで済むような話ではある。

基本的にオレは、不良を主人公にしたドラマ・映画・その他はキライである。不良をヒーロー扱いするのはいかんというよりも、実は不良は最初っからヒーローなのである。だから、不良を扱ったからといって、んなもんはアートではない。バカ臭い。

のではあるが、それでもオレがこの漫画の原作を折りに触れて読んだりしていたのは、この漫画には、それだけではない魅力があったからだ。

その魅力がなんだったのかなどということはこれまで考えたこともなかったけれども、今日このテレビを見ていてわかった気がする。つまり、徹底的にバカ臭いのである。

ちらっとインタネットで検索してみたが、このドラマは70年代的熱血先生をいまどきどうの、という寸評があったりした。しかし70年代だって、ここまでバカ臭い人物設定はなかった。中村正俊はちとそうだったかも知れんが、バカをやってもバカではなかった。憂いがあった。

この ROOKIES の場合、出自がマンガだということもあろうけれども、主人公の先生は徹底的にバカである。それを、生身の人間がきっちり演じきった。そしてきっちり、魅力的な作品に仕上がっている。ここに非常に感心した。

なんてぇのかなぁ。

以前このブログで、作品が作品と呼ばれ得るものであるためには、少しぐらいの欠点はあったほうがいいのだ、と書いた。
今回この作品を見て思うのは、徹頭徹尾欠点だらけであってもいいのだと分かったとでも言うか。とにかく徹底的にやり倒すこチカラのスゴさというか。

まぁとにかく、感心したのだった。


04:12 |  |

名古屋御園座で観劇というものをしてみむとてすなり

2008.08.24  [七年目]
ちょうど一週間前の土曜日、わしは生まれて初めて「お芝居」というものを見てきた。名古屋・御園座で、である。
                misonoza

なんつーか、こう、あくまでも消費者的な立場でモノ申すのだけれども、いくらなんでももうちょっと真剣味というものがあってヨイのではないかと、そう思ったのであ〜る。表現者にしても、舞台裏にしても、設備管理者にしても、だ。

自分としてしくじったなと思ったのは、実はその前の日に Audrey Hepburn 主演の映画 『My Fair Lady』を見てしまったことだ。

もう古い映画である。しかし『My Fair Lady』はどこまでも、画面の隅々にまで「作品をつくる」という気迫があふれていた。2時間作品のどの一瞬にも、隙がないのだ。

それに引き換え、この芝居は・・・。緊張感が足りん。学芸会レベルではないのかと、腹が立つよりつまらなくなってきて、第二幕はほとんど寝てしもうた。無論ときおり客席は「わっ」と盛り上がってはいたから、99.99%のお客様におかれましては満足してご帰宅の途に着かれたことでございましょう。

しかしワシはもうこれで多分二度と芝居見物には行くことはあるまい。1万4千円払って眠るだけでは、あまりにロスが大きい。

眠らせないほどの『生のキアイ』というものが感じたかったのでござるが。




08:15 |  |

篤姫 萌え 3

2008.08.05  [九年目]
突然、篤姫のテーマソングがど〜〜〜〜〜しても聴きたくなって、検索したら出てきたのがコレ。

こう言っちゃなんでござるが、けしてウマくない。けど、なにやら大変な感動がここにはあると思うので紹介させていただく。このあと他のオーケストラのものも幾つか見たけど、この高校の演奏が一番ぐっとくる。なじぇかはわからん。

                

演奏された皆さんに拍手を贈らせていただきます。見事!でした。

05:25 |  |

篤姫、萌え 2

2008.07.07  [九年目]
今日は、年に一度のクラス会の日であった。
ために、NHK大河ドラマ『篤姫』をリアルタイムで見ることができなかったのであ〜る。

で今、見た。すっげ〜なぁ。素晴らしいぞ宮崎あおい。

わしゃ4月のブログで、
あおいちゃん、もうちょっとしゃっきり演技してくれんとあかんよ、舞台セットに負けてるよと書いた。

すまん、もう完全に宮崎あおいがこのドラマを引っ張っている。
斉彬、いつ死んでもヨシσ(^。^;)バキ☆\(^。^;)。

宮崎あおいがスゴくなってきたのは、将軍家定との婚姻が成る頃からであったろうか。
演技に迫力が出てきて、今日あたり完全にもう『徳川の女』になりきっていたと言えるとワシは思うが認定権はわしにはないのでよう分からん。とにかく、どえらぃ感動した。

ワシもかつて、あぁいった瞳で見つめられたと誤解したことがあるなぁ。
そのことを思い出した。

映像史上最高のラブシーンだったぞ、宮崎あおい。
素晴らしかった。


続きを読む
03:17 |  |

写真撮影は犯罪か XIII

2008.06.03  [九年目]
ついに第13回目である。わはははは。

さてワシはあんまり具体的な話はしたくないほうである。
そもそも下世話な話が、なおのこと品が落ちるからである。
と言っておいてからやるw。

すんげー前の、つまり1980年代中ごろだったかと思うのだが、こちらの地元新聞「中日スポーツ」にこんな連載写真記事があった。

『応援席の美女』みたいなタイトルだったんだろうと思うのだが、要するに、昨夜のナゴヤ球場での観覧席の中で応援する人の中から、選りすぐりの美女をどアップで激写し、それを紙上二面あたりにど〜んと掲載する。

で、「こちらの方はどなた?編集部まで連絡をください。パネル写真と化粧品セット贈呈」みたいなことが書いてあるわけさ。


いまこれを、無茶苦茶に品のない企画だと思うのは勝手ではあるが、当時、この新聞読者らあるいは実際に写真が掲載された美女さまらはどう思ったのであろうなあ。

おれがどう思ったかというと、う〜んあんまり覚えていないな。
・美女だなあ とか
・なんでこんなんが とか思ったかも知れない。

ただ、応援の臨場感のある、いい写真ばっかりではあったんだよな。だから悪印象ってのはあまりなかったのかも知れない。


が。


このブログ記事を更新しようとして思い出したんだから、それなりの問題意識はどこかにはあったのかも知れん。




あ〜、今回と前回の記事については、私なりの「主張」というものは、格別ない。
いまという時代の空気のおかしさを、過去と比べて浮き彫りにしてやろうというだけのことだ。

つまり、意図はあるわけか(__;)

続きを読む
13:36 |  |

写真撮影は犯罪か XII

2008.06.03  [九年目]
ついに第12回目である。わはははは。

さてワシはあんまり具体的な話はしたくないほうである。
そもそも下世話な話がなおのこと品が落ちるからである。
と言っておいてからやるw。

すんげー前の、つまり1970年代に一世を風靡したシャンプーのCMで「振り向かないで」ってのがあった。
髪のきれいな女性を後ろからついて行って撮影し、声をかけて振り向いたところまで写し取って放映するっつーやつである。
当時、別にヘンだともなんとも思わず、実にさわやかな印象を受けた覚えがある。

コレも今ふうに言うとストーカー的盗撮なのかねと思って調べてみたら

        補追:撮影に関しては事後の承諾、放映に当たっては
            予めの承諾があると思われるわけだが、それは
            放映に至った場合の話である。事後の承諾が得
            られなかった場合もあるはずである。

ぬぁんとこのシリーズ、2002年に復活していたのか。たった6年前のこっちゃないか。

ライオン社のホムペにはこうある。
『髪のきれいな女性を選び、街頭インタビューしています。登場する女性たちは、インタビュー時にカメラの存在を知らないので、振り向いていただいたときの驚く表情がとても新鮮に仕上がりました。』
http://www.lion.co.jp/press/2002028.htm

別にこの説明で十分であると思うが、肖像権原理主義者(←我ながらウマイなぁw)はコレをどう見る/見たのだろうか。


なんつっか、アレだなぁ。

ウマン・リブってのがあったときがあって、ソレはソレで分からんでもないんだけれども、調子コイて行きすぎちまって、
『ぼく食べるひと』『あたし作るひと』というラーメンのCMまで放映中止に追い込んだりしたことがあったわな。
あの時代は、「わたし可愛い奥さんになりたいわ」なんつー発言さえ憚られたもんだわな。

時代の空気ってのは、こういうもの…つまりヒステリックな狂気と隣り合わせ…なんだろうなぁと思う。
こういう空気ってのは、やっぱり誰かがどこかで五寸釘をブチ込んでおかないと、いかん。
でないと、戦争が起きる。戦争って、ホンモノの戦争。WAR。

こーゆーことは、あまりリクツこねまわしても伝わらんのであるな。リクツの限界っつーやつだわな。
そういう小難しいことを一発で

  ぱっ

と分からせてしまうのが写真なり絵画なり小説なりのアートのチカラなわけだ。


写真で主張せなあかんな写真で(笑)
02:35 |  |

写真撮影は犯罪か XI

2008.06.02  [九年目]
「写真撮影は犯罪か」シリーズもついに第11回になってもうた。
もうやめたい。
やめたい最大の理由は、ローマ数字はあと一回分の12までしか書き方を知らんからである。時計でしか見たことないも〜ん。



さて、写真をみていただきたい。誰が写っているかわかりますか。
撮影日時は 2005/08/21 15:29:11。 これがヒント。

                 J Koizumi


これは当日、名古屋駅頭にて街頭演説後、そっこーで新幹線に向かう純ちゃん・小泉純一郎氏を撮影したものなんだけれども、いま問題にしたいのは、このケータイ・カメラの渦・渦・渦。

小泉さんの場合は当時総理大臣であられたので、まぁ言わば、日本で一番プライバシーのない立場にある人だからこういう狂乱事態となっても、まぁしょうがないと言うか、当然と言えば当然。

だけど、この「ケータイ・カメラの渦・渦・渦」の場面ってのは、公人に限らず、わりと見る風景ではないかと疑問を呈したいわけ。とくに芸能人。スポーツマン。

有名税であろうということで我慢しているのだろうけれども、実際には芸能人・スポーツマンの場合、その肖像に関しては一般人のソレとは違って、モロ商業上の価値を持っている場合があるというか、ほとんどそうだろうと思う。芸能人であれば所属プロダクションに、プロ野球選手であれば所属球団に肖像に関する版権があると聞く。サッカーのJリーグについては、非常に厳格な管理がなされていると聞いたこともあるが、詳細については知らん。

となると、この場合はドサクサ紛れのモロ『版権ドロボー』なわけで、絵に描いたような『盗撮』。

芸能レポートなんてぇのを見ると、当の芸能人が
「あ、写さないでください、写さないで」
と言うてるのに、一般人どもはばしばしケータイカメラで撮りまくってるわな。
ここまでくると『強盗撮』とも言えるわなw。
で、そーゆーことをしとるコイツラに、自分の肖像権を主張する資格ってのはあるのか。
と言いたいわけだ。

て言うかぁ。

コイツラの言う肖像権なんてのは、所詮その程度のものでしかないのではないかと言いたいわけ。


かつて誰だったか
「おれは肖像権なんてものは認めん」と言い切ったヤツがいたが、
蓋し、アッパレである。リクツが分かっているヤツとは、こういうヤツのことを言う。

いずれ肖像権が否定される日は必ず、来る。
手前のことはさておいて
ゲイノー人、スポーツ選手の肖像権を否定するモノがいる以上、絶対にそうなる。

それでヨイのである。

04:46 |  |

写真撮影は犯罪か X

2008.05.23  [九年目]
これも今とつぜん思い出した話だ。忘れんようにメモっとくつもりで書く。

ネット上での知ったあるアマチュア写真家なのだが、そのひとはいまある人物を追って、撮影しまくっている。という言い方だとサスペンスすぎるなぁ。

言うまでもなく当然、被撮影者の同意はない。同意があっては成立しない写真だからだ。

おそらくいずれ、その作品は世に出るであろうが・・・イノチガケというか、人生まるごと賭けだわな。
このご時勢では、これまで築いてきた社会的名誉もなにもかも失うかも知れんわけだ。

無論そういった危険のあることをわきまえた上での挑戦であり、こうなってくると、写真を超えて、生き方自体がアートと言えよう。

カメラを持ったサムライである。


続きを読む
09:20 |  |

写真撮影は犯罪か IX

2008.05.23  [九年目]
ついに第IX稿(笑)。

いまふいに思いついたのだが、てか、第VIII稿の誤字脱字をチェックしていて(見つかっても直さんけど)、アラーキー氏のくだりで思い出したのだが、そこで私は
氏は脚立を立てていた
と言った。

そこで、おれらアマチュアも、あえて脚立を使ってはどうかと思いついたのだ。完全な思い付きだ。三脚なんかでは話にならん。つまり「堂々」を超えて「目立って」撮影するのである。脚立の脚の部分に『放送部』だの『通信部』だの、中学校の部活の名でも書いておけばなおよろしい。バスケとかはいかん。

日本人はどういうワケか、プロはアマチュアよりエライと思っているバカが多い。とくに写真の世界には異様に多い。

ネット上の写真仲間で、おれが大好きなじい様なんだが、その人なんと『報道』『PRESS』の腕章を自作して持ってる。IDカードも持ってる。めっちゃおもろいギャグだなぁと思ってたんだけど、実はこの点に関するアイロニーなのかも知れん。確かに報道もプロの独占物ではないしなぁ。

てなわけで、いまこの瞬間からプロに変貌するのが写真の世間での世渡りのコツかも知れんと思いついた次第だ。

もっとも、これもやっぱり「こそこそ」かも知れぬ。
09:02 |  |

写真撮影は犯罪か VIII

2008.05.23  [七年目]
まさかこれほど続くネタになろうとは(笑)。
もうちょっと最初に、整理してかかるべきだったかも知れん。闇雲に書き始めたからなぁ。

実はコレまでギロンしてきたのは、被撮影者側における認識の問題であった。
仮にコレをx軸上の問題とする。右側が同意あり、左側が同意なしとする。
で、世上一般人は自分たちが相当左のほうにいるように認識しているかも知れんが
実はそうではなく、おんどれらが思っている以上に、相当右にいるんですよ、という話だった。


ところで、撮影者側のモンダイをモンダイにするのを忘れていたバキ☆\(^。^;)。
撮影の態様のモンダイである。
堂々と撮るか、こそこそと撮るかのモンダイである。
大騒ぎで撮るか、静か〜に撮るか。

先にちょこっと登場いただいたアラーキーさまなどはさすがに物凄い堂々ぶりで
明治神宮の参拝客数万人の波の中に脚立を立てて大騒ぎしながらカオ・カオ・カオを撮りまくる。
レベルがちがうのである。

さて盗撮、という言い方をする以上は後者、つまりこそこそと静か〜に撮る場合が問題になるのであろうが、わしゃ実は、そういうのは念頭になかった。アラーキー氏とまではいかないまでも、別段こそこそ隠れもせずに撮る場合しか考えていなかった。

ちょっとメモしておこう。
======================================
同意のあるなしと、盗撮であるかどうかの間には
必然的関連性は、ない。
======================================

ではy軸を設定することにする。y軸上方向が『堂々たる撮影』、下方向が『こそこそした撮影』ということにする。

なんかヘンだな。第4象限てあるのか(爆)。
誰か、例を挙げてみてくれへんか。


さて実は、ノーファインダ方式での、街頭スナップというジャンルがあることに気づいたのだ。
ファインダを覗くことなく、つまり手からカメラをぶら下げたまま、シャッタだけを押しながら
そこらじゅうを歩き回り、まそうすると意外なことにイケてる写真もあったりするよ、というワヤなジャンルである。

確かにイケてるのがあるにはあって、見上げるようなアングルは新鮮で、たとえばワンコ・ニャンコにはこういうふうに街が見えてるんだろうなあ、ほぇ〜え、すっげーなということになる。

誰が最初にやったのかは知らんが、コロンブスの卵といっしょで、最初にやったその人にしか価値は認められないとは思う。思うが、想像力のないマネ好きは多いため、ネット上なんかでも、この手の写真は飽きるほど見る。

第3象限のモンダイであるなあ。
ほかに例えば、公園でダンボールに入って、あるいは人の気づかぬうちに砂山に模したトーチカつくっておいて、その中から迎撃ちがうわ撮影するというスタイルも思いついたが、撮影行為に及ぶ以前の時点で犯罪色が濃すぎるので言わんでおく。書いておく。


以上、話を再整理しようと思って書き始めたが、余計に混乱してきたので一旦、やめる。
本来的には第3象限のみが問題視されるべきところ、アヤフヤなことに、第2象限の領域までもがミソもクソもいっしょくたに犯罪視されとるのではないかと書こうとしたのだが。


08:50 |  |

写真撮影は犯罪か VII

2008.05.22  [九年目]
自分が撮った写真が、どうも盗撮的で違和感がある、あるいは
他人が取った写真が、どうも盗撮的で好きになれない

…といったような経験が、アマチュア写真家のみなみなさまにおかれては、一度ならずあることでございましょう。ワシにもある。

ワシなどこう見えて、潔癖症なところがあるものだから、ちと法的な言い回しになるが、人物写真については積極的あるいは消極的承諾が必要、と考えていた。

こうなると、被撮影者の同意があることが明瞭に示されているか、そうでないとしても少なくとも明確に目線をとらえていて、そのことで撮影されることについての承諾が推定され得るものでない限り、全部盗撮と判断することになる。写真家側にとっては相当に高いハードルとなる基準である。

いったんそう思い込むと、たとえばモデル撮影会であるとかキャンギャルっつーのか?そういう場での写真であっても、目線の来ていない写真はすべて盗撮的なものと見えてくる。とくに90mm以上の望遠系レンズを使うと犯罪色(笑)はいや増す。

さてここが非常に重要なのだが、つまり、盗撮的であるかどうかの重要な判断基準は、実は「思い込み」に基づく、ということである。盗撮か盗撮かと疑念を抱きながら写真を見るから、そう判断することになるのだとオレは言っているのだ。

バカ言うヤツがバカ てな言い回しに倣うと
盗撮言うヤツが盗撮根性 なのである。
スケベ言うヤツがスケベ。
変態言うヤツが変態。いくらでも言えるぞ。

さて、いま社会の風潮が先に見たように、肥大化した自己決定権→肥大化したエゴイズムを認容する方向へ思いっきり振れているので、大半の人間は先見的にこのように、つまり「目線がない写真は盗撮である」というような、言わば刷り込みが行われていると言える。盗撮盗撮とさわぐヤツに相当の問題があるのだ。

目覚めよ、おれらアマチュア写真家(笑)。

で、ワシは目覚めたわけだが、ワシが目覚めたきっかけは実は、同意を得ては成立しない人物写真の領域があると気づいたからだ。
詳細についてはメンドウなので書かんが、簡単に言うと、一般人は役者ではないので、同意を得た瞬間に被写体としての魅力がゼロになる場合があるということ。撮りますよと言った瞬間に大根役者になってしまうのである。横顔や後ろ姿にピースマークが張り付いていやがる。

事後の承諾でもヨイのではないかというギロンもあり得るが、それはやはり少し論点をすり替えているわけで、本質的ではない気がする。また、ほんなメンド臭いギロンをしているぐらいだったら、先にも書いたように、どいつもこいつも一歩家から踏み出した以上、どこでどう撮影されようとモンク抜かすなという社会的風潮を築き上げたほうが、写真がどーのこーのと言ってるその枠を超えて、社会的に有意義だと思うわけだ。

それでえーじゃねーかなにが悪い。

でだ。どーしても写されたくない場合、例えば忙しくて化粧してこんかったとか、歯痛でカオが歪んでいるとかいう場合は、あらかじめ『撮影拒否』と腹背に書いておく。
つまり、公共の場では一般的に撮影の承諾をしたものと推定する、と理解するのが正しいとおれは言っておるのだ。

が、おれだけ言っておってもしょうがないわな。

現実的には札幌の永遠の少年が盗撮容疑で被告あるいは被告人席に立たされた際、おれら仲間がが証言台に立って札幌少年を勝訴に持ち込み、以後、以上の見解が判例として確立する日を待つことになる。

それは明日かも知れんが永遠に来ないかも知れんので(来そうだが)、とりあえず、シャッター切って被撮影者と眼が合ったら
「ぐ〜っ!!」
「いいねー!!!」
ぐらい言えるアラーキー的感性を磨きたいものである。

そのことのほうが大切である。
17:14 |  |

森進一 『おふくろさん』 改竄問題

2008.05.22  [七年目]
『おふくろさん』は、まぁ日本の財産と言える歌のひとつであろうことに異論はあるかも知れんが、まぁないことにしておく。とりあえず、名作である。

で、この歌を名作とした最大の貢献者は、
だれが見ても森進一ではないのか、という気がするのだが、どうだ。
あえて言うなら次にコロッケである。
川内康範氏は、氏には悪いが、生みの親ではあるかも知れんが
それもイマサラであって、育ての親である森進一に
全面的に著作権をやっちまってもえーのじゃないかとオレは思う。
森進一でなければ、あの歌は売れなかった。とオレは思う。

のだが。

実は森進一の改竄作を、昨年だったか一昨年だったかのNHK紅白で、おれはリアルタイムで見たのであるが、
もうはっきり言うが、あの改竄は

あ ま り に ク サ イ 。

「おふくろさん」の歌全体の価値を、あの前フリはパーにしているどころか、毀損している。
『あなたの あなたの 真実
 忘れは しない 』
との整合性が、あれではゼロになる。
だいたいダサ過ぎる。

おれの勝手な推測なのだが、
おそらくは川内康範氏自身も、「おふくろさん」については、もう森進一に遣ったぐらいの気持ちは持っておられたことであろう。
しかしながら受贈者たる森進一においても、きちんと贈与者への尊敬の念は持つべきところ、
あの前フリはなぁw。お前、ここまで理解しないままに歌っておったのかおんどりゃあっ。
と、おれでも怒り心頭に発することであろう。

てなわけで、わしゃ軍配を川内康範氏に上げざるを得ない。
ひとつの完成したアート作品の価値を毀滅した森進一は、アーチストとしての責めを負うべきである。
以上。


ところでこの「おふくろさん」と先の「腐敗したどったら私だけキレイよ」の歌とを比べてみると
比べようもなく(どっちやねん)「おふくろさん」のほうが上であることだなぁ。
つまり、「おふくろさん」は誰が歌ってもいいが
「腐敗した地上にどったら」のほうは、歌ってヨイのは、素人のど自慢のチャンピオンのあの子だけである。
01:46 |  |

平原綾香の歌に悩んでみる

2008.05.22  [九年目]
平原綾香の歌がキライである。
タイトルがなにかは知らんが
「この腐敗した地上に堕とされた」てな歌があるべ?
そこに、超ムカつく。

ぬぁんなんだこの被害者意識は。
てめぇもその『腐敗』の一部だという認識はねぇのか。
てめぇが浄化の核になって行こうという主体性はねぇのか。
てな感じで、この一節だけでめっちゃ腹が煮えくり返って
あとがよう聞けん。
もうちょっとちゃんとした歌なのかも知れんが、そこまで到達でけへん。

と思っていたら、二つの点でちょいと歌手・平原綾香を見直すこととなった。

ひとつはNHKのドキュメンタリ『ダーウィンが来た』の主題歌。
めちゃいいじゃん。
えこれ平原綾香。うそぉ。
いぃじゃんコレ。
てな感じで、平原綾香については、他の曲を聴いてみたいと思うようにはなった。
いまんところ平原綾香はおれの中ではevenな存在である。

もひとつ。
これは歌手でなくて歌の問題なのだが、先ごろの
NHK「素人のど自慢 チャンピオン大会」の優勝者の持ち歌がコレだったのだが、
それは実に上手かった。
単純に感動もしたし、表現者によって、この歌はここまで深められるものなのかと驚嘆もした。

見てないひとは可愛そうだわな。
すっげー良かったのだ。

なんつーか、表現者を選ぶなぁこの歌詞は。
で、やっぱり
『私は命の限り主体的に生きたいのだ!』
という叫びを表現できる者だけがこの歌詞をクチにする資格があるのだ
ということがよくわかった。

見てないひとはNHKに行って見てきましょう。
表現意思というものがいかに重要かがよく分かると思いまふ。
01:24 |  |

soulful。  トータス松本

2008.05.21  [九年目]
昨日、百年ぶりぐらいに、テレビで音楽番組を見た。

たなワケで、今世紀・前世紀の音楽シーンはほとんど知らんのであるが、
たまたま『ウルフルズ』という名前は聞いたことがあったので、
なぁんとなく、見聞きしてはいた。
おれはテレビは須らく、ながら族だ。

そのながら族のおれが思わずのけぞり、見入った。
トータス松本、ものすごい歌手ではないか。

このウルフルズの歌について、おれはほとんどオリジナルを知らない。
日曜のどっ昼間、NHKテレビ素人のど自慢で披露されるのを聞いたことがある程度だ。
なので、やっかましい歌だなぁぐらいしか認識が、ない。

で、初めてオリジナルを聞いた次第であるが
ま要するに、なんてすげぇヤツがいるのだと。

サムライがなんとかっつう歌を聞いたが、いままで
日本人男性歌手でここまでソウルフルに歌える歌手って、いたっけ。(女声は、いた)
世界クラスじゃないか。

なにしろ、美声とは決して言えないのがいい。
この点で一流の仲間入りする資質を持っていると言える。
(欠点のないヤツにろくなやつはいないというのは、前に書いた)

めちゃ期待株である。
欧米でもウケるメロディラインを開発して
とっとと世界へ行って欲しい。
23:02 |  |

写真撮影は犯罪か VI

2008.05.20  [七年目]
さてそろそろオレの結論を言うことにしょう。

と思ったが、その前にもう一度、整理してみることにする。

一般アマチュア写真家の撮影に際して肖像権うんぬんどうたらこうたらと言われるようになったのは、おそらく1995年ぐらいからのことである。
その前提となる概念として、1985年ぐらいから『自己決定権』というものが喧伝された。
この延長線上の概念が法制化したものとして、個人情報保護法がある。成立は2005年。まだ最近である。

およそ20年間かけて、
「おれのことはおれが決める」→「おれにかまうな」→「法律もそうなっとる」
という図式ができた。犯罪以外は自由、てなもんである。
 
  なお付言すると、個人情報保護法自体はそのような法律ではない。
  一部のアホウによって、『個人情報保護の趣旨からすると』という枕詞をつけて、
  不利なことは言わんでもヨイ法的根拠、と捉えられているだけのことである。


日本人が『自己決定』の概念をどこでどう間違えたのかさっぱり分からんのであるが、もともと主体的決定力のない民族性からして(農耕民族なのでしょうがなけれども)、とにかくもうワヤな方向へぶっ走った20年であったというこっちゃないのんかと思う。

この20年という時期は、例えば通勤通学電車の中でメシ食うとかよ。化粧するとかよ。座り込むとかよ。犯罪でないから何しようと自由かて。放っておけかて。写すなかて。というようなクズどもが増長したのを軌を一にするとは思われぬか。


てなワケでだな。こういうバカモノどもについては、がんがん撮影し、インタネットで公開しさらすのが正しいのではないかとおれは思うわけだ。司法がどう判断しようとだ。

だいたいそもそもが、男が(女もだが)一歩外へ出たならそれですでに公人と言ってヨイのであり、写されてモンクたれるような顔なら家から一歩も外へ出るなどアホウと、これはおれが言ってるのではなくて(言っているが)、そいういう社会風潮を作っていくのが正しいのではないかと思うわけだ。

いつ何時撮影されようとヨイという覚悟を持って外へ出ろ。と自戒の念もこめておれは思う。公共の場所でなら、いつ撮影され、インタネット公開されるかわからん世の中のほうが、緊張感があって面白いのではないかとおれは思う。マジで。

読者諸兄、どう思われるや。

おれはそういう「世の中全員フォーカス・フライデー」なサイトを立ち上げてやってもえぇかと思っておるのだが。

04:52 |  |

写真撮影は犯罪か V

2008.05.20  [九年目]
さて、どういった場合に他人をその同意を得ずに撮影し得るかの問題であるが、わしはこのギロンを掘り下げる前に、ちと、報道機関・マスコミの責任について言及しておきたい。

報道機関・マスコミ、つまり、他人を、その同意を得ずして撮影しまくっている連中のみならず、各種フォトコンを開催して、アマチュア写真家らからの応募作品を載せまくっている連中について、である。

この、各種フォトコンの投稿規程を見ると、だいたいどこもこんなふうに記載してある。

『肖像権に関するモンダイは、応募者側で責任を負えよ。おれら知らんからな。』


肖像権がらみの問題を矮小化して捉えれば、確かにそれしか方法はない。つまり、撮影者が撮影の際に、被撮影者の同意を得ておくしかない、ということになる。多くの場合は、んなことはしていないであろうということについては触れないのが大人のタイドというやつであろう。
まして個人所有のクルマ・建築物については、問題視さえされていない。

実にスジが通っておらんのである。議論するべきである。いったいどこまでが許されるか。
「許される」つう言い方はいかんな。
被撮影者はどこまで拒絶できるか、という言い方のほうが、おれには正しく聞こえるな。

まその、さっき触れた『濫りに』撮影するとは、法的にみてどのへんに境界線があるかについて
写真でメシ食っとる放送・報道・マスコミはギロンせなあかんちゃうんちゃうと思うのである。

先にそれせぇよ。
おれの意見は後にしたいがな。

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01:17 |  |

写真撮影は犯罪か IV

2008.05.20  [七年目]
さて、肖像権たらなんたらがこれだけ五月蝿く言われるようになってくると、実はそれが、風景写真であるとか、街角スナップなどについては最早その存在を否定されているのも同然であり、だとするならばこの点について、もう少しギロンが起こっても良さそうなものではある。

ところが全然と言っていいほどギロンは巻き起こらん。
しょうがないのでオレがここで書いているわけであるがだ。

もう少し話を引っ張ってやろう(笑)。

さて、気弱な風景写真家、街角スナップ写真家はいったいこの問題をどう捉えているのであろう。
私が見た中では
『芸術目的なら許されるのではないか』
というのがあって、これはおれは笑えた。「芸術目的」が判断基準として有用性があるとでも思っているのかw。

また、放送・報道機関はこの問題をどう考えているのであろう。
NHKなどは、天気予報の背景に、よく街角スナップを流している。夜半の音楽番組などは、70年代80年代ごろの街角風景をきっちり流している。とくに「可愛い子」などは大写しになっている。
このあたりはマジでその見解を聞いてみたいところである。

それでは、法律的にはどういう扱いがなされているか。
肖像権に関する明文の規定はないなどメンドウなギロンはぐぐれカスなので措いておくとして、
おそらくは
『他人の肖像を濫りに撮影してはいかん』てな言い回しになっておるのであらふと思う。
今はもうちょっと進化しているかも知れんな。まいい。
問題は『濫りに』とはなんだ、ということになる。

被撮影者の積極的同意がない場合が『濫りに』か。
あるいは被撮影者の拒否がある場合が『濫りに』か。

さてどうだろう。
00:55 |  |

写真撮影は犯罪か III

2008.05.20  [九年目]
なお、ここで私の『基本的』な立場を言っておくと、
『基本的』には、撮影行為は撮影者側のワガママに発する行為なので、
『基本的』には、被撮影者側の同意が必要である、ということになる。

これが私の基本的立場である。被撮影者側にめちゃ寄っている。
どだ、意外であろう。


ただ、これはこのまま敷衍すると、町の風景写真というものは成立しないことになる。

人の肖像とかでなくて、風景ならいいんじゃないの、コイノボリなんていいじゃん
という立論はコンニャクであり、採るに値しない。
立論するならきちんと、なぜ人の肖像は許されないかを言わねばならん。
写真表現と違って、ギロンはキビシイのである。


でだ。なんで人の肖像は許されないかを考えてみることにするが、
その前にちょっと言うておくが、
あんたらアマチュア写真家なぁ。
肖像=「カオ」と思っているひとが多すぎる。
そうではないぞ。肖像とは身体の一部または全体を言う。指先でも肖像である。
後姿ならいいとか、そういうタコなことを言ってはいかん。
どうせ撮るなら正面から盗撮して来い。

また、だれかを特定できなければかまわんと言ってるヤツもたまに見かけるが、
特定できない場合は、被撮影者にとって、被害(?)を申し出るのが得策でないであろうというだけで、
特定できないからと言って、撮っていいということにはならん。
どこの誰かが分からんのであれば殺人してもかまわんというのと同じリクツであり、
こういう言い方(特定できなきゃいい)を見聞きすると反吐が出る。


さて、話が飛んだが、なんで肖像権などというものが登場してきたかというと、それは
『自己の容貌に関する情報は、自己で管理し得る』という、自己決定権っつー概念がそうさなだいたい1985年ぐらいから鳴り物入りで登場してきたからだわな。



00:43 |  |

写真撮影は犯罪か II

2008.05.20  [七年目]
そう言えば、何年か前にこんなことがあった。

ワシがワンコ連れてカメラ持っての散歩の足を、ちょっと遠くまで延ばしたときのことだ。
何ヶ月か前には野っぱらだったところに、
新しいマンションが建っていた。

まだまっさらの壁面が西陽に輝いてまぶしく、そんななかで
一軒だけ、小さなコイノボリのセットをベランダからにゅっと、空に向かって突き出していた。
そりゃあ撮ってみたくなるがな(笑)。

で、かしゃかしゃと2〜3枚撮ったときのこと。
マンション駐車場からひとりのおっさんが出てきて、
妙におれに近づいて来るなと思った瞬間、
「ナニを撮っている」と、わりと大きな声で抜かしやがった。

おれは瞬間湯沸かし器である。
五倍程度の音量で答えさせていただいた。
そうしたところ、スゴスゴと引き下がって行かれましたが、
おれとしては、もう少し絡んで来て欲しかった。

それにしても
せっかくこの新築マンションの風情を美しく描いてやろうと思ったものを
どうにもムカついて、写真を撮ろうという意欲は台無し。

さてここで問題です。

この場合、マンション撮影をするのに、所有者あるいは居住者全員の
同意を取るべきだと思いますか(笑)。


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00:21 |  |

写真撮影は犯罪か I

2008.05.20  [八年目]
先だって、愛知県・岡崎で、高校1年生の女の子が帰宅途中に殺害されるという、なんとも痛ましい事件がありました。合掌。

で、近隣都市だから、捜査の推移に関する報道を、いちおうきちんとフォローしているわけ。どうにも他人事とは思えない。
そうするとテレビで、こんなくだりが何度も報じられてて、それは

『近辺では女子中学生が、車に乗った男に写真を撮られるなどという事件が相次ぎ・・・云々・・・』

・・・。どえらい違和感を感じないではいられない。
写真を、不同意とはいえ撮影されることは『事件』なのかと。

おれも、信号待ちの車中などからカメラを外に向けて写真撮ったりすることは、あるわけ。中央分離帯の花とかゴミとか、歩道橋を真下から見上げるなんて、そういうシチュエーションでもなきゃ、撮れないわな。

で、おれぁタクソなので、常に望遠系でゴマ化すという手法をとるわけなんだけど、つまり画角としては常に狭いんだけれども、その、風景としてケラレた部分に、女子中学生がいないとも限らないわけだわな。ここが問題。

つまり、撮った気もないし、撮ってもいないけど、撮られたと思っている女子中高生がいた可能性は、否定できん。

とすると、その子にとって、おれは「不審な事件の容疑者」ということになる。わけだぁな。

これではおそろしくてカメラ持って外歩けん。持ち歩くぐらいはともかく、ファインダ覗いて構えるなんてことは、通報される危険性と隣り合わせにあるということになる。

そうなったらそうなったで警官とど喧嘩さらすのもまた一興ではあるが、しかしそれやると気分ぶち壊しになるしなぁ。。

00:08 |  |

日本、世界一のブログ大国に

2008.05.19  [七年目]
旧聞に属するが、2007年4月7日(土)の過去ログ分から。

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昨日、クルマの中でラジオを聴いていたら、
日本が世界一のブログ大国になった云々というニュースが流れてきた。
なんじゃそりゃ?と興味を惹かれて聞いたのだが、つまり以下のようなことであった。

アメリカの某ヒマな研究所が調査したところによると、インタネット上に開設されたブログの数はおよそ7200万。へぇ、けっこう少ないもんだなという気がするが、恐ろしいことにその37%方が日本語によるものなのだと。

であるならば、これは多い。
ざっと計算して、およそ3000万弱のブログが日本語で運営されていることになり、そうすると、日本人の4人に一人はインタネット上にブログを開設している勘定になる。これは多い。

もっとも私などは一人で五つも六つも持っているのであるから、
ま、そういう言わばオタクな人間が多いのかも知れず、
そういう意味ではそれほどどってことない数字なのかも知れない。

と思ったら大間違いで、この37%という数字は、ここ2年間ぐらいで急速に伸びたものだということなのだ。
だとすると、パソコンおたくは関係ない。
パソコンおたくはもっと前からそれぐらいのことはやっている。
ここ2年間程度で新たなパソコンおたく層が増えたというのは考えにくい。

とすると、やっぱり一般的に健全な人によるブログ開設が急速に増えているのである。

などなど考えているうちにニュース解説は進み、こっちは手前であだこだ考えていたのでNHKの分析はな〜んも聞いておらん。

さて資料としておもしろいのは、この日本語によるブログ37%に次ぐのは英語36%。あと聞いていなかったが、スペイン語、イタリア語あたりだと1〜3%程度ということであった。

さてこのデータをどう見るかだが、少なくとも私流に解釈すると、
日本人の表現意欲がblogという手段を得たことによって
バクハツ的に開花したっつーことでわと。
なぜblogでバクハツしたのかは、いまもう眠いから考えん。


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