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自分が撮った写真が、どうも盗撮的で違和感がある、あるいは 他人が取った写真が、どうも盗撮的で好きになれない …といったような経験が、アマチュア写真家のみなみなさまにおかれては、一度ならずあることでございましょう。ワシにもある。 ワシなどこう見えて、潔癖症なところがあるものだから、ちと法的な言い回しになるが、人物写真については積極的あるいは消極的承諾が必要、と考えていた。 こうなると、被撮影者の同意があ...
自分が撮った写真が、どうも盗撮的で違和感がある、あるいは
他人が取った写真が、どうも盗撮的で好きになれない
…といったような経験が、アマチュア写真家のみなみなさまにおかれては、一度ならずあることでございましょう。ワシにもある。
ワシなどこう見えて、潔癖症なところがあるものだから、ちと法的な言い回しになるが、人物写真については積極的あるいは消極的承諾が必要、と考えていた。
こうなると、被撮影者の同意があることが明瞭に示されているか、そうでないとしても少なくとも明確に目線をとらえていて、そのことで撮影されることについての承諾が推定され得るものでない限り、全部盗撮と判断することになる。写真家側にとっては相当に高いハードルとなる基準である。
いったんそう思い込むと、たとえばモデル撮影会であるとかキャンギャルっつーのか?そういう場での写真であっても、目線の来ていない写真はすべて盗撮的なものと見えてくる。とくに90mm以上の望遠系レンズを使うと犯罪色(笑)はいや増す。
さてここが非常に重要なのだが、つまり、盗撮的であるかどうかの重要な判断基準は、実は「思い込み」に基づく、ということである。盗撮か盗撮かと疑念を抱きながら写真を見るから、そう判断することになるのだとオレは言っているのだ。
バカ言うヤツがバカ てな言い回しに倣うと
盗撮言うヤツが盗撮根性 なのである。
スケベ言うヤツがスケベ。
変態言うヤツが変態。いくらでも言えるぞ。
さて、いま社会の風潮が先に見たように、肥大化した自己決定権→肥大化したエゴイズムを認容する方向へ思いっきり振れているので、大半の人間は先見的にこのように、つまり「目線がない写真は盗撮である」というような、言わば刷り込みが行われていると言える。盗撮盗撮とさわぐヤツに相当の問題があるのだ。
目覚めよ、おれらアマチュア写真家(笑)。
で、ワシは目覚めたわけだが、ワシが目覚めたきっかけは実は、同意を得ては成立しない人物写真の領域があると気づいたからだ。
詳細についてはメンドウなので書かんが、簡単に言うと、一般人は役者ではないので、同意を得た瞬間に被写体としての魅力がゼロになる場合があるということ。撮りますよと言った瞬間に大根役者になってしまうのである。横顔や後ろ姿にピースマークが張り付いていやがる。
事後の承諾でもヨイのではないかというギロンもあり得るが、それはやはり少し論点をすり替えているわけで、本質的ではない気がする。また、ほんなメンド臭いギロンをしているぐらいだったら、先にも書いたように、どいつもこいつも一歩家から踏み出した以上、どこでどう撮影されようとモンク抜かすなという社会的風潮を築き上げたほうが、写真がどーのこーのと言ってるその枠を超えて、社会的に有意義だと思うわけだ。
それでえーじゃねーかなにが悪い。
でだ。どーしても写されたくない場合、例えば忙しくて化粧してこんかったとか、歯痛でカオが歪んでいるとかいう場合は、あらかじめ『撮影拒否』と腹背に書いておく。
つまり、公共の場では一般的に撮影の承諾をしたものと推定する、と理解するのが正しいとおれは言っておるのだ。
が、おれだけ言っておってもしょうがないわな。
現実的には札幌の永遠の少年が盗撮容疑で被告あるいは被告人席に立たされた際、おれら仲間がが証言台に立って札幌少年を勝訴に持ち込み、以後、以上の見解が判例として確立する日を待つことになる。
それは明日かも知れんが永遠に来ないかも知れんので(来そうだが)、とりあえず、シャッター切って被撮影者と眼が合ったら
「ぐ~っ!!」
「いいねー!!!」
ぐらい言えるアラーキー的感性を磨きたいものである。
そのことのほうが大切である。
- Date : 2008-05-22 (Thu)
- Category : 肖像権考