noises of photos デジタル時代の写真=写心論考
さて、もともと自分が思い描いたものがなんだったか、どーしても思い出せないので、ま気分を変えて(笑)、タイトルをつけることにした。
最初に浮かんだのが「京都議定書 日本の場合」・・・長すぎるわな。 それに、自転車に乗ることがそれほど環境に優しいと言い切れるのか、わしゃもともと疑問だ。
そこで
「how effective」とした。どれぐらい効果的なのか、あるいはなんと効果的なのか! をカケようとしたんだけれども、これもなんとも小賢しい。次に観点を変えて 「都会の断章」とした。 かなりに投げやりなネーミングである。
わたしゃタイトルはとにかくつけるべきだと思うので、いちおうこうつけておくことにしたが、なんともすわり心地が悪い。
この居心地の悪さは24時間続き、職場への行き来のあいだじゅう、なんかちがうなーと考え続けた。 ちぐはぐなんだよな…と考えたところで、そうだそれだっ!と閃いたのであった。 そうそうそうそう。 都会の風景のちぐはぐさを言いたかったんだよなあ!
ってか、21世紀初頭の今という時代性は、なにからなにまでちぐはぐなんでねぇかい? ライブドアvsフジテレビの低級な争いも、 会社法システムと日本人の心理状況とがちぐはぐであるところに端を発しているように思う。 教育システムなんかもそうだよなぁ。 年金問題もちぐはぐだよなぁ。 税制はどうなっとるんじゃ。
そうそうそうそう。 この、現代的ちぐはぐさこそが今いちばん認識されなきゃならんことではないのかなぁと思い、 ワシはこの「ちぐはぐ」を2005年の写真の中心テーマにすることにしたのであった。
2005-03-18 00:34:23
届いたメルマガを何気なくながめていたら、 面白いことが書かれていてふ~んと唸らされました。
なんでも、日本で人気の漫画をアメリカなど英語圏で出版するときには、 ページを左右反転することにしているんだそうな。 んなことしたらサザエさん一家なんてみんな左利きになっちまうけれども、 それでもそうする必要があるんだそうな。
最大の理由は、英語圏の人間は、文字を左から右に読む習慣が確立しているため、そのクセで、コマを追うのも左から右へ、でないとあかんのだとのこと。
なるほどー。そう言えば、右開きの英語の本なんて見たことない。
左右上下自在の日本語の場合は、どちらでもなんとでもなりそうなものなんだけれども、 セリフが縦書きで、それを右から左へ追って読むナラワシ上、 コマ送り・ページ送りともに右開きが圧倒的に優勢なんでしょうなあ。
となると、漫画を読む際に、 そのマンガ絵を見るときも多分右から左へ眺めていくクセがついているはずで、 だとするときっと、写真を鑑賞する際も無意識のうちにそうしているんだろうと思う。
どうかな。
風景写真なんかを撮るときは、 右のほうから左へ向かって起承転結を考えるのが本当なのかも知れない。
お粗末(__;)。
2005-04-06 02:56:22
付記:2年ぶりの付記である。
実はそのとおりなんだそうである。
基本的に、日本人は図柄を右から左へ読んでいく。 なので、時間軸は左向きなのだそうだ。
だから、ポートレートなどで左を向いた写真は未来志向型、 逆に右を向いた写真は過去回顧型ということになるのだそうだ。
なるほど。
ほとんどの一眼レフの場合、ファインダの見え具合をその人の視力に合わせるための、 視度調整機能というものがある。 写真のカメラ(SD9)の場合、ファインだの上にあるスライドレバーがそれである。
この視度調整機能があることによって、近視気味の人でも遠視気味の人でも、 ばっちりと被写体にピントを合わせることができる。のだそうである。 とは言え、あまりこの機能についてしっかりと考えたことはなかった。
ワシは利き目の視力がわりといいほうだから、 この視度調整レバーがどのあたりにあろうとあまりカンケーない感じがしていたのである。 まぁ、適当なところで適当にちゃんと見えていた。
むしろ、この視度調整レバーの効き目こそ、あまり理解できていなかった。 のである。
ところが、である。
ある日、ファインダの中にあるシャッタスピードだの絞りだのの数値が全く読めなかった。 これは、私の視力が突然落ちたというのではなく、 たぶん、カメラを掃除しているにでも、不用意に視度調整レバーにさわってしまい、 設定位置がズレたのであろう。
仕方がないので調整しなければならなくなったのだが、この出来事は私に僥倖をもたらした。つまり、それまで私は視度調整をする際、 漠然とファインダの中にある風景を見て調整しいたのだが、そんな曖昧なもので調整するのでなく、 いま、見えづらいと思った、ファインダ内に表示される数値を見て調整すりゃえぇじゃないか。 と気づいたのである。
なんて賢い!(笑)。
で、やってみると、確かに視度調整というのは実は相当にシビアなものであることが分かった。
ここ!
という位置がきっちり存在するのだ。
以前のように、だいたいまぁこの辺り、では拙いことが分かった。
カメラを始めて4年目も終わりに近づこうかという時期に、初めてこんな基本的なことを知った。
一眼レフを触りjはじめてから数えても、もう3年ぐらい経過している。
なんてことだ!ワシがマニュアルでのピントあわせがどうしても下手糞だったんは、 これが理由だったんだ!
…ということにしておこう。
2006-01-13 02:37:42
みなさん、視度調整、ちゃんとやってますか。
写真の基本を滔々と語るひとがいる。
やれ構図である。
ほれ露出である。
いや階調である。
やっぱピントである。
・・・死ぬまでやっとれと思うのだ(笑)。
そりゃ、確かに基本というものはあるだろう。
構図かも知れんし露出かも知れん。
被写体選びかも知れん。
レンズかも知れん。
・・・知らんわ(笑)。
ただ思うに、おそらく基本がいかにカンペキであっても、良い写真はたぶん撮れない。と思う。基本がデキてりゃそれで良い作品が取れるなら、写真教室のセンセは皆写真作家だということになる。ところがこの世界は、そーはなっとらん。
結局、基本ができすぎるほどできていて欠点がない人というのは、結局、人を感動させることができない。 感心はされても。 んな気がする。
良い写真を撮ろうと思ったら、基本は少しぐらい欠けていたほうがいいのだ。
写真に限らない。なんだってそうなのである。
欠点は、あったほうがいいのだ。
ただ、ここが大切なのだが、そのことが 、つまり自分に欠点があることを自覚できているかどうかが、どうにも決定的なカギとなる気がしてならん。 人を感動させるのは、表現者が自分に足りないものがあることを自覚して、そしてそれを克服しようと努力している姿なのであろう。チガウかも知れんが、行きがかり上、そういうことにしておく。
であるとするなら、つまり感動の源泉は表現者のコンプレックスにある、ということになる。劣等感、万歳である。
もっとも、欠点を持ちながらなんのコンプレックスもないという人間が多すぎるので、まぁそういう意味ではしっかりと自戒をせねばならんw。
2006-05-01