noises of photos デジタル時代の写真=写心論考
この、中核となる被写体を積極的に排除してみせたということについて、あえて冒頭で触れた写真技術との関連づけるなら、ハンマースホイは当時すでに確立していた写実的写真技術ではかなわない芸当を、やってみせたと言えなくもない。
当時の写真技術では、写したくないものはフレーム外へ追いやるしかなかったのであり、写実性において後塵を拝した絵画に、また一歩、強烈なアドバンテージを与えたのがハンマースホイだという分析も可能なのかも知れない。しかしそれではあまりにつまらない。むしろ、生涯のほとんどを、同じ室内の同じ構図の絵を描き続けることに費やしたその精神構造に畏怖の念を抱く。私はハンマースホイのことを、偉大な引きこもり画家と呼ばせていただきたい。
さて、こうして書いていても頭痛がしてくるハンマースホイである。実際に展覧会を訪れてから二ヶ月弱、こうしてレポートを書くことができなかった私の心情も理解していただきたいものである。陰鬱なのである。狂気さえ感じるのである。ただ、それを私は嫌いではない。
ところで、絵とはまったく関係のないことだが、妻・イーダは幸せだったのだろうか。なにしろハンマースホイの室内画のなかでは、ほとんど表情を描かれなかった妻である。描かれたとしても、えらい老けた顔であるいは疲れた顔でしか、イーダは登場しない。
展覧会へ入っていって、最初に出会うのが、婚約時代のイーダを描いたこの作品だった。
実に愛らしい表情をしている。ところがここでも「意図的な描写の欠落」が行われている。イーダの手である。
ぎえっと声を上げて後ろへ飛び退きたくなるほど驚くのであり、ここまでくると一種のオカルトとさえ言えるであろう。なおこの作品は、写真をもとに描いたものなのだそうである。
ぐったり疲れた展覧会体験であった。そしてまた、今も疲労困憊である。ハンマースホイ、偉大である。