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芸術・アートとはなにか
今日はちょいとマジな話。
実は今日、行きつけの(?)写真サイトで、ちょいとおかしな体験をした。お仲間の一人が、作品について『今回はちょっとアートしてみました』と発言したわけ。
え”・・・っ?
んじゃ今までのはアートではなかったん?と言いはしなかったけれども、アート・芸術というのは、ぬぁんと多義的なのだと初めて気づいたという次第。
こーゆー意味(どーゆー意味かと言うと、抽象的・前衛的な表現を指してるみたいだった)で使う人もいたのか、それは知らんかった、おれは今までこの言葉を間違えて使っておったのかと、パソコン画面の前でちと狼狽した。 なにしろおれはこれまでも
「アートだねぇええっ!」
てな言い方を、「天気がいいねぇ」と同じぐらいの頻度で発しまくっている(笑)。
さて、あんまり意外だったので、ちと参考にとWikipediaを見てみると、
『芸術(げいじゅつ、希: η τεχνη、 techné、羅: ars、英: art)とは、表現者あるいは表現物と、鑑賞者とが相互に作用し合うことなどで、精神的・感覚的な変動を得ようとする活動。美術、文芸、音楽、演劇など。
とりわけ表現者側の活動として掴まれる側面が強く、その場合、表現者が鑑賞者に働きかけるためにとった手段、媒体、対象などの作品やその過程を芸術と呼ぶ。表現者が鑑賞者に伝えようとする内容は、信念、思想、感覚、感情など様々である。
「権威に認められた高尚な活動」が芸術であると誤解されることがあるが、そうではない。権威とは芸術作品を世に広めたり後世に遺したり芸術活動を推奨することを目的とした組織であり、そのために特にその価値がある芸術作品を認め知らしめるだけで、芸術を定義しているものではない。 』
とあって、この定義はワシの感覚にはピッタリ当てはまるのだが。
さて当てはまるとすると、ゲージツとは『表現者あるいは表現物と、鑑賞者とが相互に作用し合うことなどで、精神的・感覚的な変動を得ようとする活動』なんだから、早ぇ話が、人間が二人おればその間で行われるなんらかの接触は、場合によっては殴り合いなどを含めて全部ゲージツなわけだ。特別なものでもなんでもあらへん。ワシはそう思っておる。
ワシがなんで写真を撮ったりするかというと、それは話すのがメンドいからだ。見たほうが早いだろう。それだけのことだ。 別に写真などをやらんとゲージツができんとは思っておらん。
ワシがなんでブログ書いたりするかというと、それは書いたほうが早いからだ。それだけのことだ。
ワシが話をしたりするのは、話しをしたほうが早いからだ。それだけのことだ。
ま、なんでもかんでも、表情ひとつ動いただけでもそれは全部アートなのだ。 そうでござろう。
もっとも、ある程度普遍的に「精神的・感覚的変動」を得ようとするなら、そこにはそれなりのチカラがなきゃいかんのだろうなとは、思う。ゲージツはバクハツかも知れんが、小っちゃなざわめきでもよろしいのではないかと思う。
その小さなざわめきを、それをアートだ・ゲージツだと認識するときそのひとは、芸術家なのだと思う。
この著書は梅棹が1955年に行ったアフガニスタン、インド、パキスタンへの旅行の際に感じたことを体系的にまとめ、文明に対する新しい見方を示したものである。前半部分にはその旅行の内容をつづりながら、そこで感じた文化性、または日本との差異、そしてそれぞれの文化における価値観が述べられている。後半部分ではそれに基づき、現代でもみられる、「西洋と東洋」という枠組みによって世界を区分することを否定し、第一地域と第二地域という区分で文明を説明した。それによると、西ヨーロッパと日本は第一地域に属し、その間をなす、広大な大陸部分を第二地域とした。第二地域においては早い時間で巨大な帝国が成 立するが、それらは制度などに問題を抱え、没落していくという。逆にその周縁に位置する第一地域においては気候が温暖で、外部からの攻撃を受けにくいなど、環境が安定している為、第二地域よりは発展が遅いものの第二地域から文化を輸入することによって発展し、安定的で高度な社会を形成できるとした。当時、この理論は大きな話題を呼び、現在においても評価されている。(以上wikipedia)
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- Date : 2010-07-06 (Tue)
- Category : 写真ごころ