noises of photos デジタル時代の写真=写心論考
=まずはフェルメール=
写真ってやつを考えるときに、フェルメールは巨峰である。作品が、写真以上だからである。写真的であるが、写真以上のチカラで見る者に迫ってくる。
いったいなぜか。ならば我々写真愛好家が、いま写真に付け足すべきものは何なのか。あるいは写真から削ぎ落とすべきものは何なのか。写真表現とはいったい何なのか。そういう根源的な問いかけが、そこにはある。
フェルメールの時代には、今に言うカメラは当然存在しておらず、ただ、その原型とされる「カメラ・オブスクーラ」といわれる仕組みだけがあった。
この絵は、作家・画家の赤瀬川原平氏がその著書「名画読本」で示されたものである。赤瀬川氏は、フェルメールはおそらくこのカメラ・オブスクーラを駆使したであろうとされているが、ここで注意しておきたいのは、カメラ・オブスクーラの場合には、現代版カメラのようには、画像を紙・フィルム、あるいはデジタルデータのようなかたちで記録として保存できない、という点である。ただその場で、視覚に一定の変容を与えるだけである。
さてここではこれ以上フェルメールの技法について触れる必要はないと思う。フェルメールについて触れたのは、ハンマースホイが紹介される際には必ず「フェルメールを思わせる、静謐で古風な室内表現」云々というように、フェルメールとの共通性を指摘する声が多いからである。そしてもちろん、そういうように言われるまでもなく、ハンマースホイの作品に触れれば、おそらくほとんどの人がフェルメールを想起するであろうからである。
ハンマースホイに触れれば、フェルメールを理解する糸口がみつかるかも知れない。そう思って私は東京へと旅立ったのだった。